早世の俊才
瀧 廉太郎(1879年8月~1903年6月・23歳没)
貴志 康一(1909年3月~1937年11月・28歳没)
瀧 廉太郎
1901年(明治34年)4月、日本人3人目となるヨーロッパ音楽留学生としてドイツ・ベルリンやライプツィヒで作曲や音楽理論を学ぶも、入学から僅か5ヶ月後に肺結核を発病する。病院での入院治療を続けたが回復の見込みはなく、翌年に帰国する。
父の故郷である大分県で療養していたが1903年(明治36年)6月29日、自宅で24年に満たない生涯を閉じた。現存している廉太郎の曲は34曲とされるが、一部資料などによってその作品数は多く存在していたようです。しかしその病気が当時流行していた感染症、結核だったことから、多くの作品は死後に焼却処分されてしまいました。
1900年(明治33年)には日本人初のピアノ独奏曲「メヌエット」を作曲、そして肺結核が悪化して死期が近いことを悟っていたであろう死の4ヶ月前にはピアノ独奏曲「憾(うらみ)」を手がけ、これが最後の作品となっています。
貴志康一
竹取物語裕福な家庭環境で育ち、14歳頃よりバイオリンや音楽理論、作曲を学び、16歳で大阪にてバイオリニストデビュー、その後17歳で渡欧し翌年にはジュネーブ音楽院に留学。終了後はベルリンに移住、ベルリン高等音楽学校にも学ぶ。
1930年の再渡欧では当時ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者であったヴィルヘルム・フルトヴェングラーとも会見しています。
1930年頃の貴志康一とレオ・シロタ(ウクライナ出身ピアニスト)(参考資料:Wikipedia)
三度目の渡欧となった1932年から1935年のベルリン滞在中は作曲家、指揮者として活躍しており、26歳にしてベルリン・フィルを指揮し、また自作品19曲を自らの指揮でベルリン・フィルと録音もしている。(貴志康一 ベルリンフィル幻の自作自演集)
1935年に帰国し翌年にはN響の前身である「新交響楽団」で、ベートーベンの「第九」を指揮している。しかし1937年11月に病気のために28歳で他界した。
代表作
交響曲「仏陀」
大管弦楽のための「日本スケッチ」
大管弦楽のための「日本組曲」
ヴァイオリン協奏曲
バレエ曲「天の岩戸」
オペレッタ「ナミコ」
ヴァイオリンソナタ ニ短調
ヴァイオリン曲「竹取物語」
歌曲「かごかき」「赤いかんざし」「八重桜」「富士山」など
参考資料:Wikipedia
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